Bombay meri jaan…… 何とも郷愁を誘い、美しくドキドキするフレーズではないですか。(meri jaanはマイ・ライフ、マイ・ラブ、マイ・ダーリンとかって訳されてますが、日本語ではこういう表現ないですよね。)私はムンバイ在住時に、"Bombay, meri jaan”という、超有名作家(サルマン・ラシュディとかナイポールとか)を含むいろんな人がボンベイについて書いた断片をあつめたアンソロジーのタイトルで初めてこのフレーズに出会い、タイトル買いしてしまいました。ちなみに、この本のはじめにも、前の記事に書いたCIDの挿入歌("Mumbai meri jaan"のエンディング曲)の歌詞が引用されています。みんな大好き、ボンベイ・メリ・ジャーン。
1990年代以降のムンバイの暴動やテロについて考えると、救いがないような気持ちにもなるけど、"Mumbai meri jaan"にしても、1992−3年の暴動を描いた映画『ボンベイ [DVD]
“Bombay, meri jaan”には、ボンベイ出身NY在住のジャーナリスト、スケトゥ・メータ(Suketu Mehta)が1992-3年のボンベイ暴動について、ムスリムを焼き殺したヒンドゥーの若者へのインタビューを盛り込んで書いたエッセイが収録されています。そこでは、日々の生活の中で、ムスリムのお店からチキンを買ったり、ムスリム聖者にお払いをしてもらったりと、ムスリムと身近に関わりながら生きてきたヒンドゥーが、「ムスリム」だからという理由だけで暴動の中で熱狂的に残虐に人を殺せてしまう悲惨な状況を記述した後で、やはり彼もボンベイへの希望を力強く描いてることが印象的です。
ここで、ちょっと長いけど最後のパラグラフを訳してみます。
アサド・ビン・サイーフというスラム研究者は、暴動や殺戮を調査する中で、人間がしうる最悪の行為を目の当たりにしてきた。メータは彼に、「そうした行為ができる人間という存在について悲観的にはなりませんか?」と聞く。
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「いいえ、全く」サイーフは答えた。「電車から指し出される手を見てくださいよ。」
もしあなたがボンベイで仕事に遅れそうで、ちょうど電車がホームを出るところだったとしたら、ぎゅうぎゅう詰めの車両に向かって走るあなたを引き上げようと、たくさんの手が差し出されるだろう。車両から、まるで花びらのように開いた手が伸びてくる。電車に沿ってしばらく走ると、あなたは引っ張り上げられる。そして開きっぱなしのドアの端っこに、足をなんとか乗せられるだけの小さなスペースが作られる。そのあとは自分次第だ。おそらく、指先でドアのフレームにしがみついて、線路沿いの柱で首をはねられないよう、体を外に反らしすぎないように注意しなければならない。でも、ここで何が起きたのか考えてほしい。仲間の乗客たちは、すでに家畜が法的に許されているよりも過密に詰め込まれ、風通しの悪い車内でシャツを汗でびっしょり濡らして、そんな状態で何時間も立ちっぱなしでいながら、あなたのことを気にかけている。この電車を逃したら、上司に怒鳴りつけられるかもしれない。給料をカットされるかもしれない。だから、もうすでにひとりも入りこめないような車内に、スペースを作るのだ。そして、この接触の瞬間、彼らは、電車に乗ろうとしている手が誰のものなのかを知らない。ヒンドゥーか、ムスリムか、クリスチャンか、バラモンか、不可触民か、この街で生まれたのか、今朝着いたばかりなのか、マラバール・ヒルに住んでいるのか、ジョゲーシュワーリなのか、ボンベイ出身なのか、それともムンバイか、ニューヨークか、そんなことは分からない。分かっているのは、あなたが黄金の街に向かっていることだけで、そしてそれで十分なのだ。さあ、乗れよ。彼らは言う。We’ll adjust.
Suketu Mehta, ‘Mumbai,’“Bombay, meri jaan,” 337p. ("Maximum City: Bombay Lost and Found (Vintage)
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ボンベイ/ムンバイには、このアジャストメント(適合、順応、加減、調整、修正)の精神がある。誰でもどこでも現実にアジャストして生きているんだけど、ムンバイではそれがもっと極端で自分にも相手にも強制的な気がします。とてもアジャストできないような状況にも、アジャストして当然だし、相手にもアジャストすることを強いるみたいな。そのアジャストも、自分のできる範囲内でアジャストするんじゃなくて、もう人が入る余地がない電車にスペースを作るように、自分や相手や状況そのものを変形していくような、創造的なアジャストメントだと思うのです。今、このアジャストすることの技法を研究できないかと検討中。


Adjustmentが強制的だというのも感じる。「降りる人がいるから、しばらく乗ってるなら奥につめて」「がんばればもう一人座れるから小さくなって」など、当然のように調整することを要求される。でも変わりに自分の番になったら他の人も同じことをしてくれるし、「つめて」ってためらわず要求していい。私はこういうのはすごく心地よくていいと思うけれど、その押し付けがましさと心理的・物理的なパーソナルスペースの感覚のなさが合わなくてうんざりする外国人もけっこういるだろうね。
まさに、ムンバイのローカル列車に乗って観察と実験データを取ったらどうでしょう。実験楽しそう。このあいだITのK君に「たまこどうしてる」と聞かれて、「Vashiに来るかもっていってたよ」って言ったら、「俺たち待ってるからって伝えてくれ」って頼まれたよ。
研究テーマにはならないかもしれないけど、電車というと私が好きなのは、乗ってきた人が座っている人に一人ひとり「どこの駅で降りるの?」と聞いて回り、近くの駅だったら、「次に私にそこ座らせて」と約束するとこ。合理的。一度やってみたい。
ありがとう!ね、思いついて早速ブログに書いてしまったけど、これ結構面白いよねー。なんかアジャストって収まりが悪いけど。いい訳ないかねぇ。
Ai
そう、私も悔しいながらもMaximum Cityには何度か涙を流したよ。うまいよ、やつは。読みやすいし、興味ある章だけでもぜひ読んでみて。
電車調査は私の丸秘フィールドワーク計画ノートにすでに加わっているのです。どこの駅で降りるか報告しあうってのも書き出しておいたポイントなんだけど。それって効率よくみんなが席に座るためでもあるし、降りる駅の前2駅くらいになったらドアの近くに進んでおかないと降りられないから予告しとくって意味もあるよね。電車のルールからみるムンバイ。
電車でのおしゃべりとか、合唱とか、物売りとか、物乞いとか…。かなり奥が深そう。映画に出てきた二キルのように、2006年、2008年の列車テロの記憶とかも気になるしねぇ。
K君、すてき。8月9月に予備調査に行けるよう、今がんばって計画書書いてます。ふー。でも自費でも行きます。